私の一人暮らし

大学に入り、関西に移動。まずは、大学の寮。四人一部屋。初々しい気持ちは、四月末まで。

まだまだ、東大闘争の燃えかすが、地方の大学にも残っている時。反安保闘争は、大学管理法案(だいかんほう・スマホは、漢字変換してくれなかった。もう、燃えかすどころか、灰でもない。)反対運動へシフト…

 寮は、その、拠点になりやすく、いろんなサークルや、団体からの お誘いが盛んで、新入生のいる各部屋 は、四月中は、賑やかであった。

初々しい学生も、段々 周りが見えてくると、そうぞうしい寮を避けて、民間の学生寮や、安いアパートへ、引っ越していく。

必要経費が膨らむ分、アルバイトも、増える頃。

授業を上手に抜け出す術も、会得する頃。


ご多聞にもれず、私も、民間の学生寮へ。

完全なる個室。それでも管理人がおり、色々管理されるものの、世話も行き届いていた。

やがて。

世話を煩わしがるようになり、シェアハウスに。

かなり、自由に生活できるようになった。自由と引き換えに、衣食住すべて自分で管理することになったが、それでも、同じ屋根の下、親しくなって、互いに支え合えるというか、いざの時は、頼れる誰かがいた。


  大学出てから、大阪府下で仕事が決まり、学生時代のシェアハウスを出て、本当に、つまり言葉通り全くの一人暮らし。

四畳半一間、三和土の続きに、板の間がすこし。そこに、ガス台と洗面台。長屋の二階で、端部屋であった。家賃の記憶がないが、安かったはずである。

(一年後に引っ越したときの、マンションは、2DK*4万円でその時代としては、リッチな方だったから、おそらく2万してないと思う。)

 

心細かった。

ホームシックは、学生時代に、卒業していたが、自分のほか誰も近くにおらず、まだ、荷物もパラパラの部屋は、ガラーンとして、寂しかった。 

窓ガラスにヒビが入っていたので、取り敢えずガムテープで、修理。

周旋屋に、クレームつけて、新しいガラスを入れてもらうように交渉。

そんな時に、「消防署の方から来ました。消火器の設置が、義務付けられてますんで…」と言ってスーツ着た二人のお兄さんが、消火器を持ってやって来た。

「あら、そうですか。わかりました。」

「はい、じゃ、2万円。」

(2万円!?、えぇ〜高いなぁ)と思いつつ、疑問を持つとか、抵抗しようとか、などの気は、更々浮かばず。

やむなく、支払い。

「ありがとうございました〜」と、軽やかに帰って行った。

先程のその2万円が、財布に響いて心細いのもあった。でも、そちらは、働いて2週間もすれば、最初の給料が出ることが、わかっていたし、手持ちの金で日割りして暮らせない程ではなかった…

でも、心細かった。


少ない荷物なので、直ぐに片付く。

近くの、銭湯に行く。

その日は、何をどう食べたか覚えていない。(日記は、付けとくものだわ…)

 明日からの、仕事に必要な最低限度の準備をする。スーツらしきものも持たなかったので、初日に勤務先に 来ていく服を手持ちの中から探しだし、アイロンをかけ…鞄を整え…等、あれこれすることで、心細さを、払拭。


しかし、しかし、

勤務が始まると、この部屋には、長くて(本当に、長くて) 夜間7〜8時間しかいなかった。

今で言う、ブラック?

夜討ち朝駆けの、忙しい日々が、続いた。

一人暮らしは、忙しかった。


あの、消火器が、詐欺だったということは、後になって職場の先輩に教えられた。