弁当箱

下の娘が、「お弁当要らない。」と言う。

金欠なのに、外ごはん?と聞くと、「重たいし、嵩張るし…」

お昼を抜くわけにはいかないでしょうということで、

「じゃあ おにぎり。」となります。

おにぎりだけでは、心もとないので、何か良い方法は…と考える。

以前、某TV番組で、

漏れにくい、薄型の***という弁当箱を、紹介していた。そのミニ版は、長財布くらいの大きさで、カバンに収めやすい、といううたい文句であった。

紹介されていただけで、勧められていたわけではないけれど、こころ惹かれていた。

日頃より、彼女が、使っていた弁当箱は、風体だけで、結構ズシリときて重たかったし、二段なので嵩張るし、やや、不満を持ちながらの弁当持参であった。


そこで、思い切って、通販で、買いました。

実物見て買いたかったけれど、店頭ではなかなか見つけられなかったので、仕方ない。


来た。

ん?

割におっきいな。

おもてたんと違う。

重さ測ったら、旧来の弁当箱と、同じ重さだし。

それにこんなでかい長財布を持つ人おるん?


注意書き。


汁漏れがしないというわけではありません。

ビニール袋に入れて下さい。

…確かに「漏れない」とは、書いてない。漏れにくいだけなんだけど、最初耳にした時は「漏れない」と聞こえたのだ。心理的なもの。

 そして、

常温に冷ましてから蓋をして下さい。

常温に冷めるのにどの位時間がかかるか、御存知ですか?

弁当作るのに、どれだけ早起きしなあかんのですか?

冬場の常温と、夏場の常温は、20度くらい違うんですけど、何を基準の"常温"ですか

  

うううう〜ん。

またか。

よくあることよ。

宣伝に過剰に感動する癖。

実際に、手にして 失望すること、多々。


娘が 流石に気を使って、

「この薄さは、良いね。」

「カバンに立て入れできるやん」

と、利点をいくつか強調して、受け入れてくれる。


で、今日、薄型弁当デビュー。


ビニール袋に入れるのを忘れた…

長財布というより、本一冊分。

代わりにカバンから、電子辞書が放出されていた。

帰って来たらなんて言うかしら…



信じられるか?67年も生きたなんて…


スーパーブルーブラッドムーンの日。

誕生日。

67回目にして、その年月を改めて考える。

小さい頃は、宮下の橋の下から拾ってきたとか、言われていた。

いつか、本当の母親が、迎えにきたらどうすれば良いのか真剣に考えた。

どんな人だろう。お金持ちかしら?美人かしら?優しいかしら?想像できなかった。

出来たらいっそのこと、何処か外国の王様の子供にして欲しい。その方が想像は、膨らむ。絵本みたいに… 

しかし、

嘘はばれる。

なんで、末っ子は、こう言う嘘に翻弄される羽目になるのか。

嫁ぎさきの、おとんぼも、どこかの川原で、拾ってきた。と言われていたらしい。



その日は、天気晴朗で、雲ひとつない晴れの日だったと言う。確かに1月31日は、晴れの特異日のようだ。

その明るい日の正午過ぎ、産まれたらしい。

近所の口うるさいおばさん達が、「真昼間にお産てなぁ」と、陰口叩いていたと、母は言う。

余計なお世話だ。いつ産まれるかなんて、制御する方がおかしい。


19の誕生日に、絶望感に苛まされた。

もう戻れない。10代には…

決して後戻りできない。

自然界の理。

そして、その延長線上に必ずあるはずの、40代、50代など、想像できなかった。


しかし、結婚して、家庭を持ち、家族の日々の事柄に、ひたすら向き合っているうちに、気がついたら60代になって…いた。


それは、生きていた証拠なんだろう。

浦島太郎だ。

ある日突然、気がつく。

自分が夢中で、ここまで来たことを。

遊んでこようが、仕事して来ようが、何して来ようが、

はっと、

浦島太郎は、玉手箱を開けたんだ。


でも、そこで、悲しんだり、怖気付く時代では無くなった。


新しい玉手箱を、手に入れよう。次はいつ開けるかな。



あっという間に日々が過ぎ…

兄との突然の別れから一年。


その日は火曜日、近くのスーパーの特売日。荷物抱えて スーパーのレジに並んでいると、携帯に電話。

兄からである。

すぐには出られず、折り返しかけることにした。

コールするが、出ない。


以前、兄から、電話があって、折り返しの電話をしたら、「ああ、ごめん。間違いだよ。」と。


もう一度、コール。出ない。

三回目くらいに、流石に何かあったのだろうかと、不安が、よぎる。


私は 生来の心配症で、ちょっと心に引っかかることがあると、勝手にあれこれヤバいことを想像する癖があるので、

 イヤイヤ、そんな事はない…

と、不安を打ち消してみる。

それでも

気になりながら、スーパーでの買い出しから帰宅すると、姉から電話である。


今日は、何かの日やったかな…と思うまもなく


「〇〇が、死んだ。」(〇〇は、兄)

という一言が、飛び込んできた。


私、さっき兄ちゃんから、電話もらったとこやねんけど…


出勤途中、電車の中だって


今、Sさんから、連絡があったよ。(Sさんは、兄嫁。義姉さんの事。ご多分にもれず実姉との間は、決して穏やかではない。)


当時兄は、明石にいた。明石の工場に、半分単身赴任状態で、義姉は千葉の自宅マンションと、明石を行ったり来たりする生活をしていた。最近は、身体の調子を壊して 明石で 病院に通っていたらしく、その日も、病院に、電話があったという。


パパが、病院に電話してくるなんて、何か急用かしら?と思ったんです。


それはパパ(兄)からではなく、救急隊員からの電話だったのだ。


私への電話も、救急隊員からのものであろうということになった。


そうでしょうね。


姉は山口、もう一人の姉は、東京。私が一番近くて、大阪。


でもね、救急隊員は、私が一番近くにいるなんて、知るよしもなかろう。

義姉に連絡がついた後なら、私に電話かける必要もなかろう。

苗字も違う私に電話するかな…



あの電話、やはり兄ちゃんから、私への電話だったのではないかと、時々思う。


兄と私は時々、大阪駅で待ち合わせて、ランチをすることがあった。


 1月31日は、私達の母の命日で、因果なことに私の誕生日なのだ。

その、1週間前の1月24日に事が、起こっている。


母の13回忌を前にして、私に話したいことがあったのではないか

娘が、2週間ほど海外研修に行く話を昨年末にしていたので、研修から帰ったら、娘達も交えてまた会おうとも言っていた…


歳いってからの兄妹との繋がりを喜んでいたふしがある。

他の二人とは、気楽に会える距離では無いから私を誘っていたのではないか。

色々気にかけていてくれた。

他の二人に比べると、経済的にもおぼつかない末っ子…


確かめようの無い話。


反魂香とやらを、

どなたか下さいませんか…












多分全ての受験生が、ひっくり返った日。

1969年1月19日

奇しくも今日は、49年後のその1月19日。


東大安田講堂事件。警視庁機動隊が、東大安田講堂に籠城していた全学共闘会議の、封鎖を解く。


文字にすればこれだけなのだが、封鎖に至るまでには、壮絶な攻防が、繰り広げられていた。

火炎瓶、催涙ガス、放水…

国家権力相手に学生が勝てるわけもなく 結果は早々に 分かっていたはずなのだが。


その朝の、加藤総長の、「本年度の、東大入学試験は中止します」という会見放送。

私たちは、試験のためにすでに自宅学習という休み体制だったけれど、すぐに高校に集まった。

志願先をかえなくてはならないか?それとも受験せずに浪人するか?


ラ・サールのトップの生徒には、早、新聞社が、取材に来たらしいとか、

東大受験組は、京大に流れるやろ。

影響受けるのは、京大だけ違うよな、玉突き事故みたいなことになるよな…

などなど

とにかくどうしていいのかわからずに、不確かな現状把握、不安、

ても、誰もが自分からどうするとは言わずにその日は、帰ったと思う。


東大の、願書に貼った写真を、ペリペリと剥がし、もうどこでもいいやと、思っていた。


東大は、ギリギリのラインでの受験。

絶対にミスしないぞという決意と、大丈夫、必ず合格するという根拠のない自信。

実力以上に、厚かましさだけでの、出願。


しかし

自惚れ強い自分でも 流石に 京大に振り替えられるほどの実力はないと、自覚した。


じゃあどこ?


もうどこも合格する自信が無い。

データが、自分の中にないからだ。


どこでも良いので合格しそうな所でおねがいします。

関西圏に、頼れる親戚はいなかってので、大阪も神戸も怖かった。

九州からは、出たかった。

一年浪人は、諸事情のため、できなかった。必ず合格する所…

あーでもないこーでもないと考えるのもうっとおしく、どこでも良いからと、結局 親に決めてもらったようなものだ。



長い間忘れていた受験の思い出。


踏んだり蹴ったり

喉が、痛いなぁと思っていたら、咳が、出始め、やがて熱。38度1分。久しぶりの38度超え。びっくり。夜中には、39度を記録した。

ムスメ達に、うるさく言われ病院へ。

 ぴぴっと、光をあてて、体温を測るやつを、使用。

「36.4度やん」

わたし大袈裟だったんですか?

インフルエンザの検査しようか、ええ、是非。


みんな陰性。インフルエンザじゃないね。


家に帰って、我が家の体温計に、頼ってみると37.9度。

ぴぴっと、なるタイプだけでは疑わしいのかと思って、昔からの平型体温計で、5分間じっと待ってみる。やはり37.9度。


咳止め、喉の炎症どめ、抗生剤をもらう。


更に一晩、38度から37.5分の間を行ったり来たり。

咳も辛いし、早く治して仕事に行かねば…


もう一度病院へ。

咳止めの点滴を所望。また、光をあてて、ぴぴっと、鳴る体温計。36.6度。

家の体温計を持っていってたので、医者の目の前で測ってみた。


37.5度。


そっちが正しいか…


で、点滴する間 念の為もう一度インフルエンザの検査。

点滴の液は、アリナミンも入っているらしい。独特の匂いがする。


これ、咳止めの点滴よね?いいえ、ビタミン剤です。

は?

ビタミン剤だけなら、点滴 要らんし…


インフルエンザB型出ました。

なんか嬉しそうに、看護婦が、言う。


抗生剤は、飲んだらあかん。

(もう飲んだ後です。)

今日は、インフルエンザの患者さんがようさん出たから、薬かなくなってたから、薬局で、吸入のお薬貰って…


(抗生剤、返したい。金返して欲しい。)


抗生剤は、またなんかの時に、取っといて。


(医者の処方なしでも飲めますってか…)


(この医者いい加減。)


熱が出て半日くらいで検査しても、インフルエンザかどうかわからんことがある

と、今更言う。ならば、決定する前に、もう一度検査に来てくれるか?くらいは、言えませんか?


2160円支払い。この中に無駄な金いくら入ってるんやろ。

財布の中には2000円残り。小銭が少し。


薬局で、処方通りの薬をもらい、1750円。お釣り250円貰う。

マスクして下さいね。という。

400円しか無いから、これで買えるマスクあるか聞くと、

「これ、391円ですね。」

袋開けて一つ取り出し、こっちが上ですね。こっちを上に使って下さい。

まだ、買うなんていうてないやろ。ありますかって聞いてるだけなのに、

そこで開けたら買わなしゃあないがな。

9円お釣りを貰う。財布空っぽ。

保険きいても、医療費高いな、年金暮しの我々には、痛い値段だわ。


ATMに寄って帰る。

家に着くと娘が、「今、薬局から電話があって、マスク代だけいただいて薬代いただくのを忘れていました。」という。


なに?

なに?💢


荷物も持ったまま、すぐUターン。

我が剣幕に、娘が心配してついて来た。

具体的に、事実を述べて、帰って来た。後ろで謝ってたのかどうかもわからん。

自動ドアが開くかどうかのうちに、薬局を出てきた。自動ドアでなかったら、バーン と閉めるところ。

何故か娘が、後ろで、ペコペコしてるのだけが、目に付いた。

あんたが謝ることないやろ。

家に帰ってマスクの説明書き見たら、上下の区別なく使えますと書いてある。わざわざ開けて一枚取り出して説明する必要なんかなかったやないか!!!!


患者を、なめてるやろ。医者も、薬局も。もうすこし、繊細な扱いできひんのか。

薬剤師   

一見、丁寧に腰低そうに言いながら、いつも「薬剤師でございます…」感が漂う。

殿様商売するな〜‼︎




書き出したら爆発…

管理者から、そろそろ更新なさいませんか、とメール。

来たわ。

分かってるんです。

気になってるんです。

書く事、書きたい事が、たくさん。

頭の中にほわほわと沸くのです。

しかし 年末来

時間があれば とにかく寝るという生活が、続いています。 

朝、5時に起きます。

近くの神社に 散歩に行きます。参拝します。

それから、出勤する娘の 朝ごはん、お弁当、夫の朝ごはん、昼ごはん。簡単ではありますが、作っておきます。

休職中のanother娘のも以下同様。

ゴミ出しがあれば、ゴミ出し…

洗濯機回して

とりあえず一区切りしたら、寝ます。

午前中に仕事のある日は、2〜30分。なければ2時間ほど。そして、テキトーな昼御飯をいただいてから、買い出し。

夕飯の支度を、6時までに完了させ、夜のお仕事。

時間があれば、ちょっと仮眠。

夜のお仕事すんだら、一人で晩御飯。ビール付き。

出勤した娘は、何時に帰るかわからない。大概、10時過ぎ。早ければ…

早出の日でも 何故か遅くなる。

とくに、年末年始は、彼女も、フル回転だったようだ。

そこから晩御飯用意して。

うとうとしてると、夜中。

風呂。

寝る前に、パソコンに来たメールのチェック。

また、午前2時過ぎてる。

早よ寝よ…

という感じ。

老いの就活で、

めでたく得られた仕事のある日…即ち塾の日は、帰りが、23時半過ぎるので、更に遅くなる。

てなわけで、大して金にもならん仕事に、振り回されている。

時には、腹も立つ。何にかわからないけど…

でも、これやらないと家の経済が。

成り立たない。


夫が、もっと、収入を得られるよう努力してくれたら…助かるのだけれど、


書き出したら爆発しそう。

ちょっと書いて、またね。

にしようと思ったのに。


またね。






親だったけど、親でなくなったんだ…

書くのも、迷う事実。


長女が帰ってきて、買い物の袋をリビングのテーブルに置いていた。

中身はパンだということは、わかるのだが、私はさらにどんなパン買ってきたのかと、いう好奇心から、袋をのぞいた。のぞくためにそれなりにかなり大きめに開けた。

食事中も、テーブルにそのまま置いてあったので、娘たちの前で、袋を開き、塩パンを見つけた。

「この塩パン、食べていい?」

その時点で何となく、険悪な雰囲気を感じたのだが、それでも、「どうぞ…」というので、厚かましくいただいた。

少しして、「お父さんと一緒やな。」と、次女にいうのである。嫌な感じの言い方に、流石に、「ん?」と、返したら、「何故人の買い物の荷物を開けるか?」というのである。思いもよらない指摘に、心のなかを、冷たいものが走った。

…さきに、言い訳をしておこう。この母は、実に、気楽に娘の買い物の中身を、確かめたのだ。テーブルの上にどんと置いてある。その中身は、母が買うとしたら、考えられない程の量の菓子パン類だと、外からわかる。

だから、家族で食べるために、買い、そして、テーブルに置いたと思ったのだ。

無邪気に、「塩パン食べていい?」と聞き、そして食べた母は、ここに至って 自分の姿を情けなく思い惨めになった。

ごめんなさい…と言ったものの、納得できずにいると、次女が、たたみかけるように、「前も言ったよね。人にあげるものだったら、どうするの…」

…そこまで、無神経な開け方してないけど、と思うのだが。

リビングに置いてある荷物を、「これなあに」と、気楽に検分するのは、母の癖というか、習性でもある。

それは許されると、思っていたのだ。この子らは、小さい頃から、私の荷物に、興味深々で、何でもかんでも、顔を突っ込んで確かめて来た。母の領域に、鍵なんてかけられない。子供にとっては、そこは世界の入り口。許された。勿論、野放図に、許した訳ではないから、ときには、「めっ!」ということもあったろう。


惨めさに、涙が、出そうになった。親だからいいではないかと言いそうになったが、子供らの答えが、予想できたので、言わなかった。

親ではなくなったのね。

同居しているただの大人、いや、ただの年寄りになったのね。

ただの洗濯おばちゃん、ただの飯炊きおばさん、ただの小間使い…なのね。

気持ちを整理できずに、その場を去った。

些細な事ではあるし、さらりと、ごめんなさいをいうて終わらせても良い事でもあるが、子供との距離、立ち位置を、考え直さなければならなくなった。

親は子供に甘えてはいかんのだ。


亡くなった母に、心の中で訴えている。

「お母さん、哀しい…」

母と私の距離と、私と娘達の距離は、等しくないのだ。